宮崎の神待ち掲示板で「神」になろう

2018年10月22日

宮崎の神待ち掲示板で「神」になろう

宮崎の神待ち掲示板に、神待ちの女性が続々と集まっているのをご存知でしょうか。

神待ちが「神待ち少女」だけを指す言葉ではなくなり、むしろ18歳以上の「大人の神待ち女性」のことを指す言葉になって以来、神待ち掲示板を利用する「神待ちの女性」の数は増加の一途をたどっているといっても過言ではないでしょう。

何らかの事情によって家がなくなってしまい泊まる場所がない女性、一時的な「家出」などで一夜の宿を探している女性などが、神待ち掲示板で神待ちをするという行為は今後もなくなることはないでしょうし、それは宮崎の神待ち掲示板においても例外ではありません。

むしろ、例外どころではなく、宮崎の神待ち掲示板は、神待ち女性たちのホットスポットにさえなりつつあると言うことができるかもしれません。

宮崎の神待ち掲示板では、神待ち女性たちが「神」の登場をいまかいまかと待ち構えている状況が続いていますから、このチャンスを逃すという手はありません。

宮崎の神待ち掲示板を使って、いますぐ神待ち女性の「神」になりましょう。

宮崎の神待ち掲示板というセックスの孤島でしか生きられない「神」

宮崎は陸の孤島とも言われている。宮崎の神待ち掲示板というのは、その陸の孤島のなかで、さらに閉じられた体系を持つもう一つの孤島といえるのかもしれない。

先も見えず、不意の馘首であっという間に転落させられることにもなる非正規雇用にしがみつきながら、なんとかしのぎを削るようにして辛うじて生きている私は、機会があればこの「孤島」と揶揄される宮崎からなんとか脱出して新しい生活をやりなおしたい、ということばかり考えていた。だが、宮崎から出ていくことは、どうしてもできなかった。

当面の生活費を稼ぐことだけですっかり疲れ切ってしまい、ついに行動を起こすことができないまま、私は、この「孤島」から出ていくための方策や可能性を、ます目を黒く塗りつぶしていくばかりでありながら足元が不安定な非正規の労働の時間とともに、少しずつ、しかし、確実に奪われていくのを感じていた。

宮崎の神待ち掲示板で「神」としてのみ生きていくためには、私の暮らしぶりは少しばかり苦しいものであったと言わざるをえない。私ひとりで生きていくことは、なんとかできる。だが、困窮する神待ち女性を宿泊させたり、あるいは、宮崎のラブホテルに連れ込んでいくばくかの金銭を支払って神待ち女性とセックスをしたりする経済的な余裕は、私の暮らしにはそれほど残されてはいなかった。

それでも、私は宮崎の神待ち女性との神待ちセックスを強く求めていた。セックスの数はそれほど多くなくてもいい。だが、二月に一回くらいは神待ちセックスをしなければならない。私はそのように考えていた。

なぜだろう。私が、「神」であることや、神待ち掲示板、神待ち女性に執拗にこだわり続けている理由は、自分にもわからなかった。なぜだかわからないままに、「神」として生きたいという欲望だけが確かにあった。

神待ち女性のHちゃん

てげもぞらしく、てげふってーペニス、てげいかったねぇ

神待ち掲示板に使える経済的な余裕がそれほど残されてはいなかったとはいっても、それは、完全に「ゼロ」ではなかった。食費を切り詰め、ストレスからのアルコールの摂取を控えれば、宮崎の神待ち掲示板を利用し、神待ち女性とセックスをする程度の予算をなんとか捻出することはできたからだ。

神待ちセックスのために生活を切り詰めている私の食生活は、きわめて単調かつ粗末なものだった。職場での昼食にはこだわらなかった。いつも、チェーン店で販売されている300円前後の弁当ですましていた。夕食や、休日の食事は、基本的に一汁一菜と決めていた。あまり肉は食べなかった。野菜や卵、納豆や豆腐などがあれば、自分を生存させるために必要な餌じみた食事を安く作ることができた。

贅沢な食事、とはいっても、所詮は庶民的なレベルにとどまっている贅沢にすぎず、たかがしれているのだが、そのような贅沢な食事は、出会い交渉に成功した神待ち女性との神待ちセックスを行う前の楽しみとしてときおり味わうことができれば、それで充分だった。

神待ち掲示板での神待ちセックスを覚える前に、泥沼にはまるようにして、労働のストレスから中毒の一歩手前にまでいきかけていたアルコールへの嗜好も、いまでは、神待ち女性との会食の場でたしなむ程度に摂取するくらいがちょうどいい、という落ち着きを見せている。

神待ちセックスのために一汁一菜を基本にし、恒常的なアルコール摂取を控えることになった私は、日々の労働でじわじわと心身をいたぶられて消耗してはいたものの、肉体だけはかなり健康にはなったのかもしれない。

私は「社会人」という言葉が心底から嫌いなのだが、非正規雇用とはいえ、一応、社会を構成する一員として労働だけはしているのだから、社会の片隅で、他人からはぐれないように、人のなかに溶け込みながら生きているとはいえる。

とはいえ、友人や恋人と呼べる存在はいない。職場では、決まった時間に出勤し、淡々と仕事をこなし、帰宅するだけであって、挨拶以上の会話をするということはない。このような参加の仕方で、果たして「社会に溶け込んでいる」といえるかどうかは、心許ないものがある。むしろ、私のありかたは、社会に対する明確な拒否の姿勢であるともいえるだろう。

他者との、とくに、異性との会話は、神待ち女性とたまにするくらいのペースが自分にはちょうどよかった。普段の巌のような寡黙さに比べると、神待ち女性を相手にしているときの自分はいささか饒舌すぎるほどであった。

ほとんどの場合が一夜限りで別れることになり、「金銭」と「セックス」を交換するだけの後腐れのなさと乾きが、私にそのような饒舌を許していたのだろう。私は、自分でも驚くほどあけすけにしゃべった。何を聞かれても構わないと感じていた。他人に対して開けるような「心」や「内面」のようなものがあると仮定した場合の話でしかないが、おそらく、私は神待ち女性にだけは「心」を開いていたのだと思う。

私は、神待ちセックスにそれほど大きな感動を求めていなかった。わずかでもあれ、快楽が与えられればそれでよしとしていたから、セックスや女体に多くを望まず、醜女に属するような神待ち女性が相手であってもこれといって不満足を感じることはなかった。

神待ちセックスというのは、私にとっては「日常」というものの捏造だったのかもしれない。労働だけで潰れていきただただ朽ち果てていく日々に無理やりねじこんだ、ほんのすこしだけ浮き足だった日常離れした日常。「平常時のセックス」というものがまったくない暮らしのなかに、ふいに挿入される、平常時のセックス。

こうした、「神」としての活動をきっぱりと諦めれば、もしかすると、私はこの陸の孤島から抜け出すための行動を開始することができたのかもしれない。そう考えていながらも、私は神待ち掲示板の利用を、神待ち女性の検索をやめることがどうしてもできなかった。神待ち掲示板にアクセスするとき、いつも、依存という言葉が頭をよぎった。

神待ちセックスのためであれば捻出できる金を、どうして、私は自分の転身のための資金としては捻出できないのだろう。神待ち掲示板で出会いの交渉に成功した神待ち女性との待ち合わせ場所に向かうとき、私は、いつもそのようなことを考えていた。しかし、その考えは、神待ち女性とのセックスにおける射精とともに遠のき、つねに、ゴムにくるまれた精液とともに屑箱に葬られる運命にあった。

だが、二月に一度ほどのペースで、なけなしの金をはたいて行われるこのような神待ちセックスがなければ、私の精神はとうの昔に崩壊していたかもしれない、ということも思う。

それに、たとえ宮崎から脱出できたとして、この土地的な意味での「孤島」から抜け出したとしても、孤立を余儀なくされる私に待ち受けているのは、また別の「孤島」にすぎないだろう。おそらくは、私はどこに逃げても精神的な孤島に迷い込むことになるだろう。

私は、神待ち掲示板の存在によってこの土地に縛られていたのかもしれないし、神待ち掲示板の存在によって、この土地で生きのびることをなんとか耐えていたともいえるのである。

いつかここから抜け出せれば、どこかに逃げられればきっと、というほのかな期待の気持ちは、孤島のなかにさらにこしらえられた孤島であるかのような神待ち掲示板に逃げ込むたびに、少しずつ、千切り落としていくように、どこかに放棄されて、小さくなっていく。

わずかに残存していた私の足掻きのような感情は、やがて、神待ち掲示板と、そこで出会った神待ち女性の膣中にすべて消え去っていくことになるだろう。

神待ち女性Hちゃんの神待ちセックス記憶装置

神待ち女性Hちゃんの神待ちセックス記憶装置

わたしは別に神待ち掲示板なんて使わなくてもよかった。

住む家はあるし、仕事もある。そりゃ、派遣社員のOLだから楽な暮らしじゃないけれど、飢え死にするほど困窮してるってわけじゃない。いまは一人暮らししてるけど、本当にやばくなったら同じ宮崎県の実家に帰ればいいだけだし。なんだかんだ、お母さんの作る料理ってやっぱり美味しいしね。

でも、神待ち女性になっちゃった。いや、自分のことを神待ち女性だなんて積極的に思ったことはなかったんだけど、「神」の連中からすると、わたしってどうやら完全に神待ち女性らしい。神待ち掲示板を使ってるだけなのにね。「神」のみんなが私のことをこぞって「神待ち女性だ、神待ち女性だ」っていうから、きっと、私って神待ち女性なんだと思う。

神待ち掲示板を使ってしまったが最後ってことなのかもしれない。まあ、「神」のあなたがいうなら別に神待ち女性でもいいですけどね、って最近はけっこう割り切った気持ちでいる。あ、わたし、いま順調に神待ち女性やってるなー、って他人事みたいに思うことも多い。好きでもない「神」のペニスが私の膣中で前後してるときとか。

でも、そういうのって相手に少しでもバレると興ざめだろうから、わたしはいま「神」のあなたのペニスでイカされつつあるのよ、ってことを装うようにしてる。セックス中に考え事してるなんてことを悟られちゃあ、神待ち女性の名がすたるってもんよ、やっぱり「神」にはいい気持ちで帰ってほしいしね、なんて言っちゃうあたり、わたしって自分で思っている以上に神待ち女性としてだいぶ仕上がってきちゃってるのかも。

でも「神」もバカじゃないし、私がよがってるふりをしていることくらいはお見通しかもしれないね。もちろん、いつも演技してるわけじゃなくて、思わず本気で快楽に身悶えしちゃうようないいセックスをする「神」もいるということは、神待ち女性の名に誓って証言させていただきますけど。

わたしが宮崎の神待ち掲示板を使ってお小遣いを稼いでるっていうことは、たぶん、会社の人にはバレてないと思うんだけど、どうかな。狭い街だし、どこに誰の眼があるかわからない。ラブホテルに入るまえはニシタチあたりで飲むことが多いから、私が「神」におごってもらいながら酔っ払ってる姿はもしかすると誰かに目撃されてるかもしれない。

でも、上司とか同僚が「じつは、君が神待ち掲示板で売春行為してることはバレバレなんだ。だから……な、いいだろ?」なんて下品に迫ってくることが今のところないってことは、やっぱり、バレてないってことなのかもしれない。

会社の人と寝るのは、後々めんどくさそうだし、そういう誘い方されたらなんだかムカつきそうだから、「ふん!だれがあんたなんかとセックスするかっての!」って鼻面引っ叩いちゃうかもしれない。それで解雇でもされたら、ほんとうに家のない神待ち女性になっちゃうかもね……って、実家があるんだった、わたしには。

神待ち掲示板で出会ってセックスした「神」のことはすぐに忘れちゃう。「神」にもらったお金が、すぐ使って消えちゃうのと同じかな。「神」のほうはそうでもないかもね。なんか、神待ち体験談っていって、自分がしたセックスのことを思い出して書く人もいるみたいだし、一回一回の神待ちセックスをすごく大事にしてるんだろうなー、って感じる「神」もたまにいる。偏見だけど、オナニーの数とかノートにびっしり記録してそうだよね。

おとといセックスした「神」はどっちかっていうと淡々としてた印象があったけど、実際はどうなんだろう。わたしものちのち神待ち体験談として書かれちゃったりするのかな。ちょっと、ゾッとしちゃうね。

おとといの「神」は、一見すると何の変哲もない男性なんだけど、ちょっとピントがズレてるというか、何か、社会からはぐれてる感じの印象が強くて、いきなり「宮崎の神待ち掲示板ってのは、まあ、いわば、陸の孤島のなかにおけるもうひとつの孤島なんだな」みたいな持論をよどみなく喋りだしたときには、さすがに、ちょっと驚いちゃいました。

わたしはつとめて眼を輝かせるようにして、へーっ!孤島のなかの孤島ですかぁ!考えたこともなかったなあ!って興味津々な態度を示して相槌をうちながら、正直なところ、眼の前のお刺身を食べるのに夢中になってた。

連れて行ってもらったのはニシタチの「魚筍」ってお店で、ペニスのお味のほうはイマイチだったけど、お刺身の味はなかなかよかったかな。まあでも、「神」にしてはわりと話も面白かったと思う。「神」ってつまらない人が多いから、相対的にそう感じただけかもしれないけれど。

高校生のころ付き合ってた人が文学にかぶれててね。その人もことあるごとに「宮崎は陸の孤島だから」って言ってたのを急に思い出しちゃって。セックスしたばっかりってのももちろんあるけれど、それもあって、おとといの「神」のことは、ほかの「神」に比べるとちょっとだけ記憶に残っちゃってるみたい。

私が華のセヴンティーンを捧げた当時の恋人は、いま思うとくだらないやつだったんだけど、「ここは陸の孤島だ。この孤島でまともな精神を保ちながら生き抜いていくためには本を読むしかないんだ」なんていってね、ろくに読めもしないドイツ文学を一生懸命読んでたんだよね。

最初は愛らしかったんだけど、「自分はほかの宮崎県民とは違うぞ」って感じの自意識が段々と鬱陶しくなってきたし、東京の大学に合格して上京するのをきっかけに別れちゃったんだけど、元気でやってるのかな。バカなくせに「ドイツ語の原文にあたらなきゃな」とか言ってたけど、少しは読めるようになったのかな。

居酒屋で「孤島のなかの孤島」なんていわれたもんだから、「神」とのセックスのとき、こんな風に、むかしの彼氏のことを考え込んじゃったってわけ。「神」のあなたとのセックスでよがりくるっちゃってるのよ、っていう性的な演技にかけては研ぎ澄まされたテクニックを持つ神待ち女性のわたしとしては、演技を忘れてこんな考え事にふけるなんてのは、大失態だと思う。

でも、おとといの「神」は、「自分はべつにセックスに強烈なスペクタクル性をもとめてるわけじゃないからさ」なんて言って、あわてて快楽の演技を再開した私をとがめることなく、淡々とペニスを前後させながら愛撫を続けてた。

そうだった。そしたら、なんか、リラックスしちゃったのか、普通に気持ちよくなってきちゃってね。ひさしぶりに、神待ちセックスで「演技」じゃなくてイッちゃったんだった。

さっきは「ペニスのお味のほうはイマイチだったけど」とかいったけど、よくよくセックスのことを思い出してみたら、お刺身の味にもぜんぜん負けてなかったみたい。「神」の名誉のためにも、おとといの「神」のセックスが、人並み以上に素晴らしかったことを素直に認めます。ごめんなさい。

お小遣いをもらって別れた一人の帰り道、無数に重ねてきた「神」とのセックスのように、当時の恋人のことも色々と忘れてしまっている自分に気づかされて、Hはわずかな悲しみを感じていたようだった。Hの身体に刻印されている記憶は、神待ちセックスのしすぎで地層のようになっていたのかもしれない。

たとえば、高校生のころのHが睦言のなかで何度も聞かされた、恋人が愛読していた本の話や、恋人の口から出てきた固有名詞の記憶などは、Hのなかでは、もはやまるで思い出せない「神」たちの顔と同じ場所におさまっていた。

よくわからないなりに、ふーん、そうなんだ、って感じでボンヤリと彼の話を聞いていたけれど、それって、いまのわたしが居酒屋で「神」の話を聞いてるときとそっくりな態度なのかもしれないな、とHは考えこんで、そのような自分にやや呆れていた。

神待ちセックスの翌日、退勤後のHがカリーナ宮崎の蔦屋書店に寄ったのは、当時の恋人が何を読んでいたのかを正確に思い出すためであった。

記憶の底のほうに、「なんとなく」ではあるが、曖昧な輪郭のまま漂う具体名があった。思い出せそうではっきりと思い出せないことがHにはどうにも気持ち悪かった。その記憶は、背表紙の固有名をみれば、きっと明確な輪郭を持つかたちで完璧に蘇ってくるはずだった。

神待ちセックスはその日かぎりのことで、翌日には忘れているものだ。そのように考えていたHは、本棚の間を歩き回って、普段はあまり足を向けることがない海外文学の棚を探しながら、わたしは一体なにをやっているんだろう、と感じていた。神待ちセックスというのも変なかたちで自分のなかに残るものなんだな、と実感し、苦笑もしていた。

もちろん、恋人が読んでいたのはドイツ文学だけではなかった。しかし、Hの記憶のかたすみでぼんやりとした輪郭のまま漂ってひっかかっている本が、ドイツ語圏の作家が書いたものであったことだけは確かだった。

恋人に聞いた話はほとんど具体性を失ってしまっていたが、その本に関して恋人がとりわけ熱を込めて語っていたときの、恋人の体温のようなものだけが、Hの身体の中で溶けあいながら蘇りつつあった。

Hが探していた記憶、恋人がそれを語りながら彼の体温をわずかに上昇させもした本は、ドイツ文学の棚を一望したら、あっさりと見つけることができた。それは、『特性のない男』というタイトルの本だった。

恋人がその作品の作者の名前を呼ぶとき、恋人の唇の上には、Hの名前を呼ぶときとは違った質感の愛情の響きが宿っていた。ムージル。恋人の唇から放たれたあの四つの音のつらなり。恋人の口から出た、自分に向けられたのではない愛情に満ちた声の響きを、Hは、いま、耳元で囁かれるようにしてまざまざと聞く思いがした。

しかし、『特性がない男』というタイトルを見たとき、甘美な記憶のほのかな回帰と、遠いところからの呼び声とともに、Hは、あるひとつの落胆を味わってもいたのだった。

Hは、恋人が愛情をこめて語っていたから、だから、この作品のタイトルをなんとなく覚えていて、こうして思い出すことができたのだ、と思い込んでいたのだが、どうも、そうではなかったらしい、ということに気づいてしまったのだ。

Hは、自分から去っていったかつて大切だったはずの恋人の思い出を、あろうことか「神」としたばかりの神待ちセックスをきっかけにして思い出してしまった自分に愕然とし、落胆していたのである。

二日前にセックスをした「神」にまるで「特性」がなく、そして、そんな「特性」のない「神」の男性器によってみずからの女性器がかきまわされることがなかったならば、記憶の底の泥濘のなかで沈殿していた『特性のない男』という忘れ去られた言葉が、まきあげられる泥の烟りとともに、曖昧な輪郭をまといながらHの胸元の水面にまで浮かび上がってくることはおそらくなかったのだから。

宮崎の神待ち掲示板を使うととつぜん決めて飛行機に飛び乗った「神」

「ここが天孫降臨の地、宮崎か」

宮崎ブーゲンビリア空港の滑走路に着陸しようとして、斜め下へと下降しながら地面との間隔を少しずつ狭めていく機体のなかで、私は、この飛行機は、いま、宮崎という神待ち土地の身体のうえに覆いかぶさって、その流線的な機体を挿入しようとしているのだ、などとくだらないことを考えながら、そのように呟いていた。

私のかすかな呟きは、強い衝撃と振動をともなう飛行機の車輪と滑走路の接触、および、減速のための滑走の轟音にまぎれてほとんど聞き取れないような声であったのだし、私の隣に座っていた若者はイヤホンで耳を塞いでいたのだから、おそらくは、誰にも聞かれることがなかったに違いない。

宮崎の神待ち女性の膣中への挿入も、この着陸のように遂行したいものである。もちろん、「神」による神待ち女性の膣への着陸=男性器の挿入においては、神待ち女性の着床を回避するために避妊具をしっかりと装着する必要があるだろう。

さながら、自分が高天原から降臨してきた天津神であるかのような気分に浸っていた私は、携帯電話の使用を許可する機内アナウンスを聞くやいなや、スマートフォンの電源を入れ、起動のためにかかるわずかな時間にもどかしさを感じながら、宮崎の神待ち掲示板にアクセスしようとしていた。

私が、国譲りのために天照大神からつかわされた天津神などではなく、宮崎の神待ち女性とセックスをするために東京からフライトしてきた「神」である、ということはゆめゆめ忘れてはならない。

神待ち女性との出会い交渉は、宮崎へのフライトを決めたその日のうちにすでに済ましていたのだから、なにも神待ち掲示板にアクセスして改めて宮崎の神待ち女性を検索する必要はなかった。ただ、私は、その土地の神待ち掲示板に、その土地にいながらアクセスする気分をいちはやく味わいたかっただけなのだ。

神待ち女性のAさん

サウナの「道」が「サ道」なら、神待ち掲示板の「道」は「か道」になるのかしら

おもに東京の錦糸町で活動をする「神」である私が、とつぜん宮崎の神待ち掲示板を使おうと思ったのは、なぜだったのだろうか。それは、私にもわからない。

自分の主要な狩場である錦糸町における「神」としての行為に飽きてしまった、ということは確かにあるのかもしれない。しかし、だからといって、錦糸町から逃れるための別の神待ち掲示板の土地が宮崎である必要は決してないのだ。

もし、私が錦糸町での神待ち掲示板の利用に飽き、他の土地の神待ち掲示板を利用しようと考えたのであれば、なにも宮崎にこだわるまでもなく、たとえば、隣県の千葉県の神待ち掲示板を使うだけで済むのだから、これは、とつぜん宮崎の神待ち掲示板を使おうと思った理由にはならないのではないだろうか。

しかし、私はとつぜん宮崎の神待ち掲示板を使おうと思ったのだし、そう思った日のうちに、一度も訪ねたことがない宮崎県の神待ち掲示板を利用する宮崎の神待ち女性を検索し、出会い交渉を成立させ、フライトの予約までしていたのである。

錦糸町での神待ちセックスでそう少なくはない神待ち体験を重ねているうちに、「神待ち演劇」の構想が芽生え、次第に固まりつつあったことは、私のとつぜんの宮崎行きの思いつきと関係があるだろうか。

これも、おそらくは、いや、間違いなく関係がないと思われる。だが、私の構想する「神待ち演劇」についてまとめていくうちに、もしかしたら、宮崎行を決意した手がかりを見つけることができるかもしれないから、少しだけ、私の「神待ち演劇」の構想を書いてみることにしよう。

私が神待ちセックス中に快楽に耽溺する傍らでひっそりと構想していた「神待ち演劇」というのは、一人の神待ち少女を複数の「神」が奪い合うことをめぐる舞台作品として考えはじめられたようだった。

神待ち少女の争奪戦において、神待ち少女を手に入れようとする候補者となる多くの「神」は男性なのだが、そのなかに、ひとりだけ「神」の男性に扮した神待ち少女、擬態した「神」がまぎれこんでいる。

舞台は、この「神」に擬態した神待ち少女と、多くの「神」によって出会い交渉をなされ、その禁断の肉体を狙われている欲望の対象である神待ち少女という二人が出会い、手を取り合い、「神」と「神待ち掲示板」が支配する「神待ち掲示板のシステム」の「外側」へと脱出し、「神待ち少女」から「少女」へと回帰して生まれ直すまでの逃走の劇としてテクストが書かれ、演出が施されていく予定であった。

神待ち掲示板のシステムによって構成され支配もされている空間は、世界の端と端とが接続しあう無限の空間として神待ち少女たちを取り囲み、どこまで逃げても神待ち少女たちを逃すということがない開かれた密閉空間として設定された。

そもそも神待ち掲示板の「外側」などがありえるのだろうか。それが無限の空間であるかぎり、「内側」も「外側」もなく、神待ち少女は神待ち掲示板という果てしない砂漠のなかで這いつくばりながら互いの性器をまさぐりあいつつループするように前進することしかできないだろう。

迫りくる「神」の陰茎から逃れようとしながらもつれあう神待ち少女たちの膣は、自分を追いかけてくる後方でありかつ前方でもある「神」の陰茎の方向へと逃げることによって、接近していく。神待ち少女たちの膣は、「神」の陰茎から逃れるがゆえに、にじり寄るようにして「神」の陰茎に近づきながら、次第に両性具有の陰茎ともなり、追いついた「神」たちの尻の穴へと挿入されるだろうか。そのとき、「神」の男性たちは、もつれあうようにしてお互いの男性器をいじりあっているのかもしれない。

それでも、彼女たちは「少女」として再生するために、神待ち掲示板のシステムと、そのシステムに従順にしたがう「神」たちに抗い続け、空間に裂け目をいれて脱出してみせるという意志を決して絶やすことがない。それが徒労に終わろうとも、彼女たちは闘い続けなければならないのだ。

私が構想していた「神待ち演劇」は、おそらくは、終わらない闘争のなかでただただ途方に暮れるばかりの状況を提示するだけの、鑑賞者にとって退屈なものになるのではないかと思われた。

やはり、神待ち少女たちにできることは「待つ」ということだけなのかもしれない、と考えるようになった。神待ち少女たちの「待つ」という行為と時間を、彼女たちの闘争のアクションとしてそのまま舞台の俎上にあげ、上演することができないだろうか。想定していた劇的かつ古典的ともいえる演出による革命劇の視座から、私の「神待ち演劇」の構想は、次第に不動の演劇のヴィジョンへと近づいていたようだった。

神待ち女性は、私がこのようなことを一人で延々と考えつつセックスしていたということに、誰も気づくことがなかったはずだ。私としても、セックス中にこんな構想を練りながら、神待ち女性の肉体を愛撫する手に一切の乱れを見せず、挿入後は、射精をこらえながらのピストン運動をしっかりとこなしている自分の離れ業ともいえる神待ちセックスに対し、ほとばしる射精の快楽とともに驚きを感じていたくらいである。

構想は結局のところ構想でしかなく、実現の見込みはなかった。間断なく遂行される神待ち掲示板での出会い交渉、そして、錦糸町のレンタルルーム「プチテル」で行われる淡々とした神待ちセックスの繰り返しのなかで、私の執筆の開始はひたすら遅れた。 おそらくは、まったく手をつけることもないままに、「神待ち演劇」の構想は、構想のまま静かに人知れず放棄される末路だけが待っているように思われた。私は「神」である以上、しょせんは神待ちセックスしかできない男なのだ。

「神待ち演劇」などという、おそらくは上演することもないまま終わるであろう大それたプランを練るより前に、身の丈にあった神待ち体験談の一つや二つでも書き下ろしたらどうなのかね。そのような声が私の内側からあがってきていたのは、確かだった。内側というより、睾丸から尿道を通り、亀頭の先端へにじみでるようにしてせりあがってきたのかもしれないが。

では、私がとつぜん宮崎の神待ち掲示板を利用しようと思ったのは、この内なる声に突き動かされたからなのだろうか。それとも、構想に行き詰まったことからの逃避なのだろうか。あるいはそうなのかもしれない。しかし、これらの理由たちもまた同様に、それが宮崎の神待ち掲示板であるという必然性のようなものを導き出す理由にはなりえなかった。

重要なのは「なぜ」ではないのかもしれない。宮崎の神待ち掲示板を使おうと決めて、宮崎の神待ち女性との出会い交渉をすまし、こうして、宮崎ブーゲンビリア空港に降り立ってしまった理由は、実際にそのような行動をとってしまったという覆しがたい事実のまえでは、さしたる意味を持たないようにも思われた。

そもそも、私という「神」が不意に唐突な行動に出るのは、このとつぜんの宮崎行きに限った話ではない。もしかすると、私という「神」は、このような自分の不可解で唐突な神待ち行動のなかで、「なぜ、わたしは」と問いつづけるのが好きなだけなのかもしれない。

おそらく、私は、宮崎の神待ち掲示板で書き込みを見つけたAちゃんに出会い交渉をしかけたときから、「どうして自分はとつぜん宮崎の神待ち掲示板を使おうと思ったのだろう」と自分に問いかけて、ああでもないこうでもないと、理由を思いついてはその理由を虱潰しに否定していくプロセスに自分の身を置くことを楽しみにしていただけだったのだろう。

宮崎市内の「ホテルパリス」で宮崎の神待ち女性のAちゃんのヴァギナにみずからのペニスをねじこみ、彼女の膣中で前後させながら、私は、おおよそこのようなことを考えていたのだった。そして、私は、セックスの渦中に考えていたことを、Aちゃんに伝えないまま彼女と別れた。

セックス後にしけこんだニシタチの居酒屋「もも鐵えん」において、「私がセックスを通して考えたこと」として彼女に伝えたのは、セックス中ではなく、焼酎を飲みながらその場で話しながら考えた次のようなことである。

Aちゃんの寸止め手コキ射精でエロスとタナトスの境界線に導かれて寿命が縮む

Aちゃんの寸止め手コキ射精でエロスとタナトスの境界線に導かれて寿命が縮む

居酒屋「もも鐵えん」で宮崎の郷土料理を味わいながら私がAちゃんに即興的に話したことを記述する前に、少しばかり、今回のとつぜんの宮崎行きにあたって、私がどのようなスケジュールを組んで神待ちセックスを行っていたのかをある程度書いておく必要があるかもしれない。

私には、神待ちセックスのほかに、サウナ風呂という趣味がある。だから、今回の宮崎訪問においては、宮崎県の神待ち掲示板を利用する現地の神待ち女性とセックスするという主要な目的とは別に、もうひとつ、はじめて訪れる宮崎のサウナ風呂の事情を身をもって調査しなければならないという目的も持っていたので、この日は、「カプセルルーム&サウナ・マリノーヴァ」に宿泊する予定であった。

宮崎空港から宮崎駅に移動し、Aちゃんと合流したのが15時ごろであったから、普段の神待ちセックスにおいては食事からのセックス、いわゆる「お食ックス」を基本とする私には珍しく、今回は、セックスを堪能してから宮崎のグルメを楽しもうということでAちゃんとの話がまとまっていたのである。

そのため、「ホテルパリス」におけるAちゃんとの神待ちセックスは、宿泊コースではなく休憩コースの限られた短い時間で行われることになった。短い時間とはいえ、三時間三十分もあったのだから、それは神待ちセックスをするには充分すぎる時間であったともいえるだろう。

水風呂がややぬるく不満足に終わってしまった宮崎のサウナ風呂のことを考えると、サウナ風呂と神待ちセックスのコースは逆でもよかったのかもしれない。サウナを三時間程度の休憩コースにして手早く済まし、神待ち女性とはラブホテルに宿泊し、一晩中神待ちセックスをする。このような選択も、私にはありえたはずだ。しかし、私はそうしなかった。

とはいえ、このような選択肢は、宮崎におけるサウナ風呂の5セットと、Aちゃんとの一回戦で終えた濃厚セックスというそれぞれの体験を終えたからこそ後出しで見えてきたものに過ぎない。むしろ、神待ちセックスが優れていたのだから、ぐじぐじと女々しくこだわるのではなく、サウナ風呂の不満足くらいは、神待ちセックスの快楽を反芻しながら気持ちよく汗を流すことができた、と寛容に受け入れていくくらいの度量が必要であるだろう。

それに、「カプセルルーム&サウナ・マリノーヴァ」のサウナ風呂も、私のように水風呂の冷たさを重視するのではないサウナ好きであったならば、大いに満たされた私とAちゃんとの神待ちセックスのように、充分に満足のいくものであるに違いない。

同様に、私にとっては非常に快楽的であったAちゃんとのセックスも、ほんの少しの好みの違いから、不満足な神待ちセックスに終わってしまう、というような「神」もいるだろう。

たとえば、乳房の見た目や揺れ方、また、その揉みごたえは極めてよかったが、キスのときの舌のからまりあいに違和感がある、というような「神」と神待ち女性の身体の微細な相性、小さな違和感というのは、サウナ風呂の相性と同じか、それ以上に際立つものなのではないか。

あらゆる点において完璧と思われるサウナ風呂において、高温サウナの室内でくだらないテレビ番組を流しっぱなしにしている場合、それは、私にとっては減点である。しかし、そこに目を瞑れば、何一つ問題はない。私にとってとにかく重要なのは、水風呂なのであって、そこが高温サウナとの関係においてしっかりと満たされているサウナ風呂であれば、多少の避けがたい欠点は仕方のないことなのだ。

神待ちセックスというものも、あるいは、神待ち女性の肉体というものも、細部の欠点だけを見ていく限りにおいては完璧なものなどなく、個人的に重要な何点かがバランスよく関与しあって満たされていれば、おそらく不満は訪れないのだと思われる。私にとって、Aちゃんとの神待ちセックスというのは、そのようなものであった。

私にとって水風呂にあたるものは、神待ちセックスにおいては何なのだろうか。それが、少なくともフェラチオではないことは確かだった。フェラチオによって射精に導かれる感性にやや難がある私にとって、フェラチオの相性が悪いということは何の瑕瑾にもならない。神待ち女性とのセックスにおいて、あらかじめ、自分がフェラチオで興奮しにくく口内で射精しにくいことを告げ、フェラチオを工程から外してもらうこともあるくらいなのである。

おそらく、フェラチオというものは、私のなかでは、サウナ風呂でいうならば、追加料金を支払って利用できるタイプの岩盤浴というような、あってもなくてもいいような付加価値しか持っていないのではないかと思われる。

では、全身リップはどうだろうか。確かに、全身リップがたくみな女性の、舌のぬくもりが自分の肌のうえで圧力をかけながら皮膚の内側へとわずかに浸透していくようなあの感触にはたまらないものがある。しかし、それは、私にとっては、ロウリュのようなものであるかもしれない。もちろん、それがあるのならば嬉しいし、可能な限り体験するようにはするのだが、ロウリュがなかったとしても、サウナ風呂は充分に楽しめる。

もしかすると、神待ちセックスにおける水風呂にあたいするものは、手コキッス、あるいは、乳首舐め手コキ、もっというならば、永遠に射精ができないのではないか、というコントロール下におかれた状態でなされる寸止め手コキなのかもしれなかった。

早々の射精というのは、私にとっては、強冷水や氷点下アイスサウナなどに入ることでもたらされる瞬間冷却のような刺激に過ぎないのかもしれない。単純な挿入および直線的なピストン運動による安直な射精は、それほど丹念に蒸されていない中途半端な状態で水風呂に全身で飛び込むようにして頭まで浸かり、すぐにあがるというような、私のなかでは「無作法」だとか「野暮」とされているサウナの入浴法に似ているのかもしれない。

一方の、手コキッス、乳首舐め寸止め手コキというのは、充実した12分程度の高温サウナと15℃程度の天然水の水風呂にじっくりと浸かる反復によってのみもたらされる全身の隅々の指先まで心地よさが染みわたる快楽と同質であるように私には感じられる。

しっかり蒸されたあとの15℃程度の天然水水風呂は、果てしなく続くことを神に祈りたくなるような途方もない快楽に身をまかせて長く浸かりすぎていると、目眩がおこり、死の一歩手前に踏み込んだかのような体調不良に見舞われることがある。このまま、自分の血管は破裂してしまうのではないか、と地球の自転が反転したような危機的状況に襲われることになる。

見極めが肝心なのだ。寸止めに寸止めを重ね、ここぞ、というときに水風呂から上がり、外気浴による休憩という長く無限に続く連続射精のような時間へと突入していく。サウナ風呂というのは、この生と死の境目のタイミングを見極めて行われるチキンレースのようなものである。

そのチキンレースは、すなわち、私にとって射精と直結しているものでもあった。行き過ぎた寸止め手コキは、エロティシズムによるタナトスへの接近と迂回の反復を加速させ、ある境界線を超えると、死の領域へと足を踏み込むことになる。

それは、端的に、指先の痺れや酸欠の症状として現れる。たのむ、その寸止め手コキをする手を止めてくれ!と神待ち女性に向けて叫ぼうとする舌はあやふやにもつれる。あるいは、これ以上の手コキは命にかかわるから、一刻もはやく射精させてくれ!という悲鳴にも似た懇願の声が漏れることもあるだろう。

そのようなチキンレースの線をわずかに超えて行われる射精は、ライン手前の絶妙なタイミングで見事に解き放たれた寸止め手コキの射精とは違い、睾丸の奥から痛みがほとばしり、心臓が締め付けられ、精液とともに魂の一部が死神に奪われていくような恐ろしい射精である。

神待ち女性のAちゃんによる手コキッスや乳首なめ手コキは、寸止めから射精へと解放させるタイミングが完璧であったと言わざるを得ない。Aちゃんがそのような限りなく理想に近い寸止め射精を手コキでもって成功させたのには、「ホテルパリス」の休憩時間が三時間三十分ほどであった、ということも多少は影響していたのかもしれない。

ゆっくりと時間をかけて陰茎がしごかれていくなか、Aちゃんの舌は私の乳首にあてがわれ、こり、こり、という微音が聞こえてくるようなわずかな甘噛みや、乳頭と舌の先端の接触部分がぎりぎりにおさえられた、触れているかどうかわからないような接触の臨界地点をたえず探るような舐めによって私の快楽中枢を支配しつづけた。

当然ながら、Aちゃんによる手コキは、イカせるためならとにかく激しく擦ればよい、というような、陰茎がただ痛みを感じるような暴力的な手コキではなく、また、身を捩るようなくすぐったさで苦しみを与えるような手コキでもなかった。

彼女による手コキは、たえず勃起を維持し、精嚢から亀頭までじわじわと精液を引き上げるようにしながら、その射精直前のタイミングを指先のセンサーで感知し、身を引き剥がすように手を陰茎から退け、射精間際にまで追い詰められて激しくびく、びくと跳ね上がる陰茎をしばし放置し、のぼりかけた精液がくだっていくのを確認してから、再び手をあてがい手コキを再開する、というようなものであった。

右手の恋人というような言葉があるように、自分がオナニーのさいに利用する利き手以上に陰茎の機微を理解しているものはない。それが一人で行われる寸止め射精であれば、自分がどの程度で射精するのか、ということを、自分の陰茎の感覚と相談しながら、じっくりと取り組むことができる。

だが、女性の手によって行われる手コキの場合、要求されるのは、感覚を知ることができない陰茎に対する想像力である。おそらく、この程度の圧力と速度で触れるのがよかろう、ということも、あとどのくらいこすったら暴発してしまうか、というようなことも、神待ち女性は自分の肉体の感覚として知ることができない。

神待ち女性は、眼の前で横たわり、快楽に打ち震える「神」の男性の表情や、気を抜くと見逃してしまいがちな全身に粟立つ射精の徴候、わずかな痙攣、まぶたの瞬きなどを瞬間ごとに見極め、彼女が握ることになる陰茎の射精を想像力でもって寸止めしなければならないのである。

Aちゃんによる手コキは、感知しえない他者の陰茎に対する想像力という点において、これまで私の陰茎を握りしめてこすりあげてきた様々な神待ち女性のなかで、明らかに突出した能力を持っていることを証明するようなまことに鮮やかな手腕であった。

陰茎と睾丸を寸止めの限界から解放し、射精に導くにあたって、Aちゃんは、私の口内に舌を滑り込ませるディープキスとともに、彼女自身の乳頭を私の乳頭の上に、彼女が舌先でやったような接触の臨界地点を探るやり方ですりあわせるという離れ業までやってのけたのである。

彼女の手と口と乳首を同時多発的に使った性的刺激によって、その精子をまきちらす陰茎がどれほどはねあがったことか!白濁を放出しきったあとも、勃起したペニスがしばらく萎えずにその跳ねる動きをやめなかったのだから、私の陰茎がAちゃんの寸止め手コキによって味わった快楽の度合いの凄まじさも伺えるというものである。

射精後、私は放心状態になり、指一本動かせない状態になっていた。射精の余韻はおさまらず、横たわって呼吸を整えることしかできなかった。うつろな陶酔しきった視界に、Aちゃんがティッシュでもってほうぼうに飛び散った私の精液を拭き取っている姿がちらちらとよぎった。

私は深く眼を閉じながら、声に出さずに独り言を呟いていた。ああ、これは至福のサウナ風呂のあとの休憩とまるで同じだ、と――。

居酒屋「もも鐵えん」においては、私は、このような、サウナ風呂と寸止め射精の近似についての考えと、その観点から見たAちゃんの手コキの素晴らしい快楽についてAちゃんにまくしたてていた。

セックス中に考えていた「神待ち演劇」のことや、なぜ宮崎にとつぜん来てしまったのかという堂々巡りの思考については一言も口に出さず、私は、サウナ風呂と神待ちセックスをひたすらに論じつづけていたのである。

Aちゃんの神待ちセックスによる極上の寸止め手コキの話をしながら、私は、解散後に宿泊する予定であったサウナ風呂においても、Aちゃんの寸止め手コキのような水風呂体験があるだろう、というようなことを、射精後の思考能力の低下もあいまって、そう信じて疑っていなかったようだった。

Aちゃんと別れたあとの、私のサウナ風呂の体験が水風呂のぬるさによって不本意なものに終わってしまったのは、先に書いた通りである。

「カプセルルーム&サウナ・マリノーヴァ」でのサウナをひととおり終えた私は、カプセルホテルの狭い客室内で横になりながら、Aちゃんによってもたらされた寸止め手コキの快楽を反芻し、宮崎から錦糸町に戻ったら、「ニューウイング」のサウナ風呂で彼女の寸止め手コキを追体験するような入浴をしよう、と考えながら眠りに落ちた。

宮崎でそのように考えていた、ということを、「ニューウイング」の冷水プールに首まで浸かりながら思い出していた私の身体は、いま、まさに、神待ち女性のAちゃんによる完璧な寸止め手コキに限りなく近い快楽に耽溺しているさなかにあった。

神待ち掲示板では宮崎の女性たちが神を探している

神待ち掲示板を使ってみると次第に明らかになってくるのですが、宮崎で神待ちをしている女性の数は想像以上に多いと言わざるを得ません。

宮崎の神待ち女性たちは、神待ち掲示板で神の登場をひたすら待ちわびているのです。

傾向としては、「神待ち女性」の数に比して「神」である男性の供給が足りない状況が続いているようにも感じられます。

宮崎の神待ち掲示板を使う神待ちの女性たちを放っておくわけにはいきません。

一人の男性であるという前に「神待ち女性」の「神」である私たちは、率先して神待ち女性にアプローチをしかけて、彼女たちに救いの手を差し伸べるべきなのではないでしょうか。

宮崎の神待ち掲示板をさまよう神待ち女性と出会って「神」になるタイミングは今をおいて他にはないかもしれません。

神待ち女性と泊まりたい宮崎のラブホテル

宮崎の神待ち掲示板で神待ち女性と出会った場合、自宅に泊めるというのもアリなのですが、個人情報漏洩や盗難被害などの危険性を考えると、ラブホテルを利用するに越したことはありません。

神待ち女性とのセックスを通した性的修練のために様々な都道府県を巡り歩いてきましたが、宮崎県以上にラブホテルが充実している県は他には見当たらないというのが正直な実感です。

「陸の孤島」とも言われる宮崎だからこそ、このような溢れんばかりのラブホテル県になってしまったのでしょうか。なんにせよ、この贅沢で恵まれたラブホテル環境が、神待ち掲示板を利用する環境としては最高のものであることは議論の余地がないでしょう。

シンプルな名前が印象的な“HOTEL ROOM”は、そのシンプルな名前からは想像もつかない多様なサービスを提供しているのが特徴です。なんといっても、電マの無料貸出というサービスは、神待ち女性の女性器を責めたててイカせることに執心してやまない「神」にとっては、天の恵みであるといっても過言ではありません。

神待ち掲示板の利用中、神待ち女性の女性器から溢れ出る愛液から「大洪水」という言葉を引き出すことになったならば、その「大洪水」に溺れて全滅してしまうまえに、“ホテル アーク”という神待ちの方舟ホテルにあらゆる動物のつがいとともに乗り込んで、その愛液の「大洪水」を乗り切る必要があるでしょう。

神待ち掲示板での挨拶は小粋に、軽やかに、チャオ!の一言。そんな「神」がこぞって利用する宮崎のラブホテルが“Ciao”に他なりません。ちゃおなどを読んでいたちゃおっ娘の女の子たちも、まさか、歳を重ねた自分たちが神待ち掲示板を使う神待ち女性になるなどとは想像しなかったことでしょう。神待ち女性の事情を過激な性描写で描いた少女漫画の連載が待たれます。

クリスマス以外のオフシーズンにサンタクロースが何をやっているか、ということはあまり知られていないのですが、サンタたちのオフシーズンの過ごし方は、「神待ち掲示板の利用」です。「神待ち掲示板の利用」が公言しにくく人目をはばかるものである、というのが知られていない理由であるわけです。そんなオフシーズンの神待ちサンタたちが神待ち女性とハメ倒すために寄り集うラブホテルが“サンタのお家”です。

老舗の神待ち掲示板にはびっしりと蔦がからみついているものですが、“HOTEL IVY”を利用すれば、老舗の神待ち掲示板の壁面のように神待ち女性の肉体の隅々にまで、性的快楽の蔦をはわせて絡みつかせることができるでしょう。

待ち合わせ場所にあらわれた神待ち女性が明らかに桃尻娘であった場合、ラブホテル“peche”の利用は避けられないはず。そして、桃尻の神待ち女性がみずからの神待ち掲示板の利用や性体験を「あたし」という一人称で語りだすこと間違いなしです。